ダンス劇『マリーの夢』
熊谷拓明(ダンス劇作家)インタビュー

INTERVIEW

 プレゼントはクリスマスの季節だけじゃない! 「心の目を開けば、いつだってそこにある」というメッセージとともに、この夏、ダンス劇作家の熊谷拓明さんが贈る『マリーの夢』。チャイコフスキーの三大バレエのひとつとして世界中で愛される「くるみ割り人形」の原作『クルミわりとネズミの王さま』(ホフマン作)を、"喋る・歌う・踊る ダンス劇"として舞台化します。華やかなバレエ作品とは異なるちょっとダークで幻想的な物語を、どうぞお見逃しなく。
  開催を前に"ダンス劇"とはどのようなものか、"ダンス劇作家・熊谷拓明"とは何者かーー。
その人物像と魅力を舞踊評論家の桜井多佳子さんが浮き彫りにします。

スパッツとストッキングを身につけ
“ごっこ遊び”から始まった独学の日々

桜井  まずは、熊谷さんの踊りのルーツについてお聞きします。札幌のお生まれで、わりと長い間、独学でダンスを続けていらしたそうですね。小さい頃、ミュージカルを観て衝撃を受けたということですが、何をご覧になったのですか。

熊谷  ミュージカル『キャッツ』です。小学生のときに劇団四季の札幌公演を観ました。家に帰ると、母のスパッツを履いて、祖母のいらなくなったストッキングを三つ編みにしてシッポを作って。すぐに“ひとり『キャッツ』”が始まりました。階下に住んでいた祖父母が喜んでくれるのがうれしくて、よく披露していました。そのうち、スモークをたきたいなと妹にドライアイスをあおいでもらったり、ここで照明を落としたいなと電気を消してもらったりしてショーがグレードアップ。ミュージカルを観て「そっち側の人になりたい」と自覚したのだと思いますが、「これを誰かに習うなんて」という恥ずかしい思いもあり、ずっと一人でやっていました。ひたすら“キャッツごっこ”でしたね。

桜井  高校1年生から、札幌のダンススタジオに通うのですね。なぜ、ここで習うことを決意したのでしょう。

熊谷  「このピルエット※っていうのは、どうやっても2回しかまわれない! 3回以上まわるには、やはり習わなきゃダメかな」と感じて(笑)。恩師となる宏瀬賢二先生が教えるスタジオに通い出して、半年もしないうちに最初の発表会がありました。本物の舞台で思いきり踊ることを経験し、幸せすぎたことを覚えています。歌もやりたかったのですが踊りにハマってしまって、そのままインストラクターになりました。その時、歌手の安室奈美恵さんのバックダンサーのオーディションに合格して、半年ほど、札幌にいながら全国ツアーに参加しました。このことで僕はどこか勘違いをしたのだと思います。東京でも大丈夫だろうと上京を決意してしまったんです。23歳で東京に出てからの5年間、自信はあるのに仕事がないのでずっといじけていました。

桜井  東京ではどこかに所属したり、オーディションなどを受けたりしていたのでしょうか。あてもなくとなりますと、それは……仕方ないかもしれませんね(笑)。

熊谷  すべて自分のせいなんです。所属もせず、オーディションも受けないで仕事があるはずがない(苦笑)。ただ、その時に救ってくださったのも宏瀬先生でした。シルク・ドゥ・ソレイユの登録アーティストのオーディションを紹介してくださり、そこに合格することができたんです。

※つま先を軸として回転するバレエのテクニック



シルク・ドゥ・ソレイユの大舞台へ
喝采に包まれて考えたこと

桜井  シルク・ドゥ・ソレイユの本拠地・モントリオールに行ってみて、いかがでしたか。世界中からアーティストが集まるところですから、一つの都市に行くというよりも、そこに世界がある、という環境ですね。

熊谷  シルク・ドゥ・ソレイユの本社では、同時進行でいろいろなショーをつくっていました。当時は、新作も含めておそらく3作品くらいをつくっていて、欠員が出たショーに参加する人もトレーニングをしていました。会社組織なので、僕は会社員という立場も初めてだし、社員食堂も美味しいし社宅も綺麗だなと。衣裳ひとつをとっても、広すぎるほどの敷地内に縫製工場もあって生地から製作しているんです。ミーハーなようですが、そういうのがうれしくて夢を見ているようでした。
トレーニングの時間と本番に向けたリハーサルの時間、あと、ネイティブでない人たちは英会話の時間があります。僕の時はフランス人とアルゼンチン人、イタリア人、ドイツ人、そして日本人が同じ先生に一緒の教室で習いました。だんだんと意思疎通ができるようになり、なんだかすごく上達している気がするんですけど、実は“この連中でしか通じない英語”みたいなものができあがっていて。はじめは、ネイティブには決して通じない英語が身につきましたね(笑)。
その後、ラスベガスでのショーへの出演が決まっていたので現地へ行きましたが、そこでも延々と作品を手直しして初日が開かないんです。僕のショーは予定日が押して押して……確かリハーサルのようなことを9〜10か月くらいしていましたね。

桜井  そんなに……。それは演出家の意向なのでしょうか。それとも、別の事情だったのでしょうか。

熊谷  おそらく、初日に間に合わせる気もないのだと思います。照明合わせでも「クマ、その衣裳を着てここに座ってろ」と言われて、そのまま3時間ですからね。座りながら、これは何が行われているんだ? と(笑)。ショーが初日を迎える時も、いわゆるゲネプロのリハーサルが1か月半くらいあったので緊張云々ではなかったです。やっと始まったな、という感じ。でも、そういう作品づくりは初めての経験でしたから貴重な時間でした。
実は、滞在中に一度、「これは病んでしまうのではないか」、と不安になるくらい、やっていることにすごく飽きてしまった時期がありました。そこで、本番が終わるとすぐに隣のジムでしばらく走って、次にスタジオへ行き、即興で踊る練習をひたすら繰り返しました。何かに打ち克ちたかったのでしょうか。とにかく、一人で踊りまくって、「僕ってイメージ通りに身体が動かないんだな」と痛感しました。本番と本番の間、2年間、身体的にはハードでしたが人生でいちばん練習した時期でした。
そうしていると、ある日、スタジオにプロデューサーがふらりと来て、「クマ、明日からそれ、(舞台で)やっていいよ」と言われたんです。それで、僕のソロのパートができた。2分半だけ自由に何をやっても良かったんです。そのソロが僕を救ってくれました。

桜井  素敵なお話です。飽きてしまった、というのは具体的にどういうことだったとお考えですか。

熊谷  舞台が大きすぎて。毎回、お客さんも3千人くらい入りますからショー自体が大きすぎました。お客さんの拍手が僕の身体を通り過ぎていくんです。「この拍手は会社に対する賛辞であって、僕自身はスッカスカだな」と感じました。



桜井  なぜ、そのように冷静だったのでしょう。

熊谷  それは……ちょっとひねくれた母親に育てられたせいでしょうか(笑)。でも、帰国後、こうして舞台に立たせてもらっている時のお客様の拍手は、ものすごく僕の身体の栄養となって、明日からの意欲につながるんです。当時は辛かったのですが、あの時がなかったらいまの僕はありません。

原作者は怪奇小説家
幻想的な物語をユニークな手法で立ち上げる

桜井  『マリーの夢』についてお聞きします。題材となるE.T.A.ホフマン作「クルミわりとネズミの王さま」は、チャイコフスキー音楽の『くるみ割り人形』の原作ではありますが、バレエ音楽の台本となるのはアレクサンドル・デュマ作の「デュマが語るクルミ割り人形」。ですので、ホフマンの原作は、バレエ作品とは少し異なっています。幻想と現実が行き来しあい、美しいファンタジーばかりではなく、不気味さや醜さも含んでいてホラー小説ともいえそうなグロテスクな箇所もあります。本日のお稽古を拝見すると、その部分を楽しむというか、深めている感じがしました。「クルミわりとネズミの王さま」を劇場から提案され、どのように思われましたか。

熊谷  実は、大和シティー・バレエジュニアカンパニーの『くるみ割り人形』で、ネズミの登場シーンだけ振り付けをしたことがあるんです。15〜6年前でしたが、それからずっと僕の振り付けを使ってくださっていて。昨年、リニューアルをしたいと、また声を掛けてくださいました。そのような縁があったので懐かしい思いと、作品すべてを創るとどういうことなるのかなと考えました。ただ、今回はバレエの振り付けではなくホフマンの童話の舞台化で、読んでみるとバレエからイメージする内容とはまったく違いました。これであれば、逆に僕のテイストにすることができるんじゃないかと思ったんです。
どうしてもバレエ作品の印象が強いですが、バレエファンの方にはホフマンの作品を知って「こういう場面があるんだ」という発見も楽しんでもらいたいです。



桜井  最近の作品『舐める、床。』(熊谷が主宰する“踊る「熊谷拓明」カンパニー”のダンス劇)や『耳なし芳一』(振付・出演)を拝見しました。熊谷さんは“とっても踊れるダンサー”で、あれだけ踊れる人はダンスに対して信用もあるし、その可能性についてもわかっているはずです。でも、ダンス劇にはセリフや歌の場面もたくさんあります。熊谷さんが作品のなかで使うセリフや歌は、決してダンスの可能性を諦めている人のものではありませんね。そのあたりが、この“ダンス劇”を理解する鍵となる気がするのですが。

熊谷  もう7年くらい、このスタイルを続けています。喋ることを取り入れ始めたきっかけは、こういうことが好きだというのもあるのですが、踊りって、ときに不自然な行為と思われがちで、その要因を極力削っていきたいとも考えました。自分の踊りに酔ってしまうと、苦手な方には「ダンスって踊っている人が気持ちいいものなんだね」で終わってしまうのが残念で。
若い頃、札幌でタクシーの運転手さんに「お兄ちゃん、金髪ってことはなんか特別なことやってるの?」と聞かれ、自信満々で「ダンスですね」と答えました。「ダンスか、社交ダンスかい?」と聞かれ「ジャズダンスです」と答えると、「ジャズダンスかぁ。自分にはまったく関係のない世界の話だけど、がんばってね」と言われました。僕は、それがひどくショックだった。だから、あの運転手さんにも関係のあるダンスってどこにあるんだろうと、いまでも考え続けています。たとえば、高く足を上げた時に腿の裏が痛かったなら、痛い顔をすれば「同じ人間なんだな、その人間が積み重なって踊りになっているんだな」と感じてもらえないか、とか。
あとは、言葉自体も大事ですが “発話している人がそこにいる”という温度感のようなものもとても好きです。
ここ数年は、セリフを喋りながら踊っているうちに、言葉で伝えたかったことが踊れるようになってきたと感じています。以前も自由に踊っているつもりでしたが、喋っても良いと自分に許可した途端に身体がより自由になったんです。いまは、だんだんと役割が逆になるという現象が起きています。つまり、事柄をはっきりと伝えたい時こそ踊って、曖昧にしたい時ほど言葉をたくさん使うといったことです。

桜井  喋る身体を作ったら、踊りの内容も変わってきたということですね。
あの……、もしかして、熊谷さんはすごく照れ屋さんですか?

熊谷  ぶっ。(顔を赤らめて)

桜井  たしかに“そこまで言葉で言ってしまうと、どうも感動しきれないものになってしまう”という場合があります。その部分を、身体を使って表現されると観る者の心にすんなり届く、ということはあります。過去の作品で「幸せなんてどこにあるんだよ!?」というようなことは喋らせて、だけど、その次の感情は踊りで表現する、というようなことがありましたね。

熊谷  はい。「幸せなんて~」と叫んだ男が踊ることで、この人にも幸せがちゃんとあるんだな、ということを伝えたくて。でも、あるお客さんからは、彼は“本当にやさぐれたヤツなんだ”という感想をいただいたりして。もちろん捉え方はさまざまで当然だと思っているのですが……、難しいものですね(笑)。

桜井  私には叫んだ彼の幸福感が見えましたよ(笑)。受け取り方はそれぞれですが、その余白や可能性こそがダンス劇の楽しみ方かもしれません。『マリーの夢』にもそれが活かされることでしょうね。

熊谷  ありがとうございます(笑)。ダンス劇は、僕の中では究極に踊れることが前提なので、自分に課すこともおのずと増えてきます。踊れないことの言い訳ではなく、“踊れる僕が、踊りません”という状態から、ダンスって誰が見てもいいものなんだ、と感じてもらえるような作品をつくっていきたいです。最終的には、やはり身体で作品に責任を持ちたいと思っています。



子どもたちが真似したくなる舞台を
“マリーの夢ごっこ”のススメ

桜井  “子どもに見せたい舞台”というシリーズです。子どもの頃、どのようなご家庭でしたか。

熊谷  あれこれと“つくること”が好きな両親に育てられました。父は、ダンボール箱で家の中に僕の家を建ててくれたり、母は絵本をたくさん選んでくれて、しまいには僕を主人公にした紙芝居をつくったり。ただ、母親からは、踊りも歌も言葉もずっとダメ出しをされて育ってきた感じがあります。家で歌をうたっていると、ちょっと下手だとなおしたり、読書感想文を書いたら先生方に褒められたのでうれしくて見せると「こんな大人の機嫌を取るような言葉ばっかり並べて、自分の言葉はどこにあるの?」と言ったり、いまでも舞台のフライヤーを見せると「これ誰か観に来てくれるの?」なんて言っています(笑)。

桜井  子どもの頃、ダンス以外に好きだったことはありますか。

熊谷  ダンス以外は……、そうだ。僕は映画監督になりたかったんです。小学生の時に、父親が仕事で使っていた8ミリビデオがあり、友達におもちゃの拳銃で撃ち合いの芝居をしてもらって撮っていました。近所からは、ピストルを鳴らしている奴らがいる! なんて怒られたりして。ワープロで打った台本を渡して、男友達三人と映画を撮っていました。

桜井  では、その頃から台本を書いていたということですね。なんだか、なさりたいことは叶っている感じがします。

熊谷  親戚は皆、小さい頃のまま40歳になったんだね、と言っています。妹がこうやって(電気のスイッチをパチパチと)明かりを操作していたのが、いまではプロの照明さんやスタッフがついてくださっているんですから叶っていますね。幸せなことです(笑)。



桜井  『マリーの夢』の見どころを教えてください。

熊谷  舞台を観た子どもたちが思わず真似をしたくなるような、家にあるもので遊べるようなヒントが子どもたちの目にたくさん見えてくる舞台をつくりたいです。僕が居間で踊って妹がドライアイスを担当して、そこにおじいちゃんやおばあちゃんが拍手をしていたように、家に帰っても再現可能な特別な時間にしたいと思っています。 子ども向けという言葉がありますが、これも大人が作った言葉なので、必ずしも子どもに向いているかどうかは、わからないじゃないですか。だから、子どもに向けてではなく“あの時の僕に自慢できる舞台”を目指しています。「君が一人でやっていたことを、いま、たくさんの大人が頭を悩ませて作っているよ」という目線で。家に帰ったら、自分のお母さんも踊り出すんじゃないかな、と感じてもらえるとすごく素敵だなと思っています(笑)。

桜井  歌詞なんかも子どもに語りかけているようで、実は大人に向けたメッセージでもあるようでした。でも、子どもは子どもの心できちんと受け止めて、歌を口ずさみながら帰る様子が思い浮かびます。

熊谷  コロナ禍と呼ばれる時代が続いていますが、これは以前の僕たちには想像ができなかったことですし、このような状況でも人は楽しく生きていく必要があると思うんです。ですから、僕を含めた大人たちが自分の頭で判断した可能性というものを、子どもたちに押し付けないことが大事なんじゃないかなと思います。僕は自分の母親をひねくれていると言いながら、感謝もしているのは、勉強もそこそこに“キャッツごっこ”に夢中になっている子どもに、興味の向くままにすべてをやらせてくれたことです。 いま、舞台は不要不急のものと言われていますが、そういう無駄とも言われかねない時間が、子どもたちが大人になった時に何かに結びつくこともあるんじゃないか。想像がつかない未来がやってくるのだから、何が子どものためになるのか、正解はわからないはずです。だったら、無駄と言われていてもそういう時間を子どもたちにたくさん提供することにより、将来的に何かがどこかで覚醒することを願いたいと思います。

桜井  熊谷さんの“ダンス劇”を心から楽しみにしています。

聞き手:桜井多佳子(舞踊評論家) 
撮影:飯野高拓(梅棒)
構成:公益財団法人としま未来文化財団

撮影:川面健吾
熊谷拓明
ダンス劇作家 踊る『熊谷拓明』カンパニー主宰 8歳の時に観劇したミュージカルに衝撃を受け、一人で踊る日々を送り、独学に限界を感じ15歳より札幌ダンススタジオマインドにて宏瀬賢二に師事。2008年〜2011年、シルク・ドゥ・ソレイユ『Believe』に出演。独創的な即興のソロパートでアメリカ合衆国ラスベガスにて850ステージに立つ。帰国後は自身のオリジナルジャンル「ダンス劇」を数多く発表。これまでに『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(振付)、ヨコハマ・パラトリエンナーレ2017『不思議な森の大夜会』(演出・出演)、 めぐるりアート静岡2019参加作品 野外ダンス劇『近すぎて聴こえない』(演出・出演)、おうちで見よう!あうるすぽっと2020夏『おはなしの絵空箱』(ステージング・出演)など。2021年はノゾエ征爾脚本・演出『ぼくの名前はズッキーニ』、加藤シゲアキ脚本・瀬戸山美咲演出『染、色』など話題公演の振付を手掛ける。
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