――能というと、どうしても高尚なイメージがあります。能楽堂という場所も普通の劇場とはまた違って、ちょっと敷居が高い感じがします。安田さんは高校の教師をされていた時に能に出会い、能楽師の道へと進まれたとうかがっています。能のどんなところに惹きつけられたのでしょうか?
安田:本当のところを言うと、能はすでに江戸時代から退屈なものとされていました。それが、ここまで続いているのは、とてもすごいことだと思います。言語に絶するすごさ。なかなか説明は難しいかもしれません。
――正面の鏡板に松が描かれた能舞台という空間も独特ですし、朗々とした謡や大鼓、小鼓、笛といった囃子の音も魅力的です。
安田:音もそうですし、面(おもて)に惹かれる人、装束に惹かれる人もいます。
――退屈だとされながら、室町時代から600年以上も続いてきたのはなぜでしょうか?
安田:能は基本的には鎮魂の物語です。自分の解決しない思いをもつシテ(主人公)が、解決してほしいと願う物語です。江戸時代は、それが平家や源義経の鎮魂だったわけです。能を観に行くと、能を観ないで自分のことを考えている人が多いと思うんです。 やがて過去の記憶を思い出すのですが、それがあまりに強すぎると寝てしまうんです。でも目を覚ますとすっきりしている。
――現代人にとっては魂の浄化?
安田:そうですね。人間は生きてくるなかで、いろんな可能性を捨ててきている。その捨ててきた自分が、いまの自分を形成する重要な存在だとすると、それを放置しておくと、たとえば武士の霊を放っておくと怨霊になるように、かつての自分も怨霊となって人生を狂わせる可能性がある。でも能を観ているとそういうのを思い出して、寝ちゃってすっきりして解決されるんじゃないでしょうか。現代人で能が好きな方は、社会で一生懸命やっている人とかが割といらっしゃる。ある程度の年齢になって好きになるのは、そういう魂の浄化的な作用があるんじゃないでしょうか。
――かたや浪曲は古典芸能というより、大衆とともに育ってきた芸能です。
奈々福:能と対極的なんですよね。能が見えない世界のこの世にいない人に捧げるような部分があるとすれば、浪曲は徹頭徹尾、いま目の前にいる人たちのためにある。目の前の人たちが物語に心を遊ばせるために身を尽くす。日本では一番後発の語り芸で、150年くらいしか歴史がない。昔の節や講釈、落語、義太夫のいいとこ取りをしていると思います。臆面もなくいろんなものを取り入れて、臆面もなく感情表現をして、とにかくなんでもやるという貪欲さがある芸です。落語というのは、涼やかで品のいい、台本も練られている、都会の芸だと思いますが、浪曲は腕力でもっていっちゃう。そんな強引なところも含めて私は好きです。
――三味線と一体で演じられます。
奈々福:譜面がないので一回一回がセッションです。その一回性、段取り通りにやらないからこその迫力、失敗するかもしれないけど、いっちゃうときはすごいぞ、みたいな。そんな粗野なところもいいんじゃないかと思います。
――安田さんは著書の中で能の「妄想力」についてお書きになっています。落語や講談、浪曲といった語り芸も、それこそ観客の想像力にゆだねるところの多い芸能です。
安田:日本に語り芸が多いのは、それを享受する性質を持っているからだと思います。昔は子どもたちがそろばんを教わる時に、空中で暗算をするように、見えないものを出現させる能力って、日本人はすごく強く持っていると思います。能の中でAR(拡張現実)を出現させる力を持っているので、それをいかに引き出すかが重要です。能舞台には松しかないので、能の中で浮かべた光景をより投影しやすいと思います。
奈々福:浪曲は言葉が現代的だし、語りに負うところが大きい。表現の抽象性でいえば、能のほうが舞で表現されたりして抽象的で、想像を自由にさせてくれる部分はあると思います。
安田:西洋では語り芸が廃れていきましたが、日本ではずっと続いている。
奈々福:それぞれの芸が生まれてきた出自や社会的位相とか、担ってきた人の位相とか、芸としての使命が一つ一つ違う。それで[上書き保存]されなかったんじゃないかなって思います。
――一方で、共通のネタがあるのが興味深いです。落語でも能狂言、講釈から元ネタになっているのがずいぶんあります。
安田:今謡われていない謡曲集に、『真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)』の「累(かさね)」がある。能になっているんですよ。四谷怪談など、江戸時代にはそういうのがいっぱいあったようです。
奈々福:同じ元ネタでも講談にいくのと、浪曲にいくのでは抜き取り方が違う。能がすごいのはあらゆる芸能の元ネタになっているところです。そういう[本歌取り]の文化が日本にあるのが面白いと思います。元ネタをしっていると、二重、三重に面白い。
安田:落語の『船弁慶』なんか、能を知らないとつまらない。
奈々福:なんでこんな悲劇が、こんなに笑いにされるのかって思いますよね(笑い)。
――今回はお二人で、夏目漱石の『吾輩は猫である』と『夢十夜』より「第三夜」、小泉八雲の『耳なし芳一』演じられます。
安田:能というのをテーマにした作品の上演で、能自体をやるわけではありません。最初は30年以上前です。いろんなところへ行って、能を見たことがありますかと尋ねると、かなりの方が手を挙げる。ところが3回以上になると急に減ってしまう。みんな1回でいいって思うんですね。それは怖いなと思いました。小学校で能の授業を30年くらいやっていますが、能の詞章は分かりにくい。言葉が分かるのを演じてみたいと思ったのがきっかけです。漱石の『夢十夜』は漱石が能を真面目に習いだして最初に書いた作品の一つなので、ちょうどいいのです。みんなすごく面白がってくれます。
――漱石が能を習っていたということに興味をそそられます。たしかに、「第三夜」は、我が子を背負っている父親が過去の恐ろしい事実を突きつけられるという、過去と現在、死と生が交錯する話で、夢幻能のような感じです。
安田:今回の『夢十夜』は、世界中どこでやっても田んぼが見えるとか、山が見えるといわれます。ストーリーを軽く説明した後、字幕を付けずにやってもそういう反応なんですね。面白いなと思います。能の発声とか、能の動きが創る力かもしれないですね。
奈々福:『夢十夜』は槻宅聡先生(能楽笛方森田流)の笛でされることもあれば、私の三味線でされることも。チェロやバイオリンなどいろんなバージョンがあります。どこでやっても国境は感じないですね。
――奈々福さんは、「対極」にある芸とおっしゃいましたが、これまでコラボレーションを重ねてこられています。きっかけは何だったのでしょうか?
安田:僕は高校時代、本当は浪曲が好きだったんです。いつか、能を浪曲の三味線でやってみたいという欲求がありました。
奈々福:そうだったんですね。最初、私が出版社の編集者時代に安田先生に本を書いてくださいってお願いしていた時に、別れ際に「実は浪曲師もやっていまして」って告白したら、すごく驚かれました。即座に、「僕の寺子屋で浪曲やってください」って言われたのが、きっかけです。
――コラボレーションされていかがですか?
安田:能の詞章は分かりづらいので、奈々福さんに分かりやすくすることを担当していただけるおかげで、こちら側は安心して分かりづらくできます。物語は、半分が分かればストーリーは分かる。そうすると、より自由に「能的」なことができるんですよね。『耳なし芳一』は、『平家物語』を語ったということだけが書いてあって『平家物語』自体は入ってない。僕たちは『平家物語』自体も語ります。
―奈々福さんが、芳一の役をされるんですよね。
奈々福:あんまり浪曲っぽくやろうとは思っていません。どういうふうにしたらお客さんが喜ぶか想像するんですが、お客さんがどんな顔をするのか、どんな結果になっていくか、ものすごく楽しんでいます。能の身体技法とか、浪曲の発声を使っているのですが、それをわざわざ意識はしていません。
安田:長い作品をやるときに大事なのは、ダレさせることなんです。僕の歌が半分子守歌になるのが重要で、奈々福さんの声ではっと我に返る。能ということをあまり意識しないで観ていただけると楽しいんじゃないでしょうか。
――奈々福さんは、10月に『奈々福の、惚れるひと。』シリーズの第2弾があります。講談師の神田松鯉さんと、落語家の春風亭一之輔さんをゲストに招き、奈々福さんの浪曲も含め、三つの伝統話芸が楽しめます。第1弾も聴き応えがありました。
奈々福:自分はさっさとやって、あとは聴き手に回るという夢のような企画です(笑い)。松鯉先生はお声を聴くだけで、しびれますよね。松鯉先生が、阿久鯉先生、鯉栄先生、松之丞さんを育てたことって、ものすごく大きいなと思っています。一之輔師匠は、あの太いというか、ふてぶてしいところが素敵だなって思います。年下ですが、見上げるような感じでいたので、お招きして傍で拝見するのが楽しみです。
取材・文=濱田元子/毎日新聞学芸部編集委員
撮影=市来朋久