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ラップ+演劇、そしてダンス。チェーホフ・フェスティバル参加作のなかでも、とりわけ斬新な角度から巨人・チェーホフに斬り込む気鋭のアーティストが顔をそろえました。「誤意訳」という独自の戯曲解釈で翻訳劇の矛盾や退屈を斬る・中野成樹さんと、ダンスを核にボーダーレスなパフォーマンスを創作する矢内原美邦さん。お二人の「対チェーホフ」戦略とは?
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――お二人は今年、チェーホフ・フェスティバル以外でもご一緒する機会があったとか? 矢内原:今年の年頭に、東京芸大と日大建築学科の合同プロジェクトに参加していました。 中野:割と最近のことなんですよね。それまでは稽古場周辺ですれ違う、“気になるけど隣りのクラスでよく知らない人”みたいな感じだった(笑)。やったのは「戯曲を持って街に出よう」という3本連続の企画で、1本目は僕がベケットの『幸せな日々』。矢内原さんは3本目で、拝見できなかったんですが、そのときもチェーホフでしたよね。 矢内原:このフェスと同じ『桜の園』です。自分で書き直したので、原作からはるか遠くなっていたんですが(笑)。チェーホフをやるなら『三人姉妹』か『桜の園』とずっと思っていて。でも『三人姉妹』をもとにした『五人姉妹』という作品を創ってから、それほど時間が経っていないので、今回は『桜の園』をと。まあ『五人姉妹』と名づけた時点で、当然その時も原作からはかけ離れてましたけれど(笑)。 ――チェーホフは非常に上演機会の多い作家ですが、お二人とチェーホフ作品との出会いは? 中野:僕は大学で演劇学科演出家コースだったんですが、そこで教材として渡されたのがチェーホフでした。読んでレポートを書けとか、ちょっとした実習で「じゃあ『かもめ』のあの場面を使いましょう」とか言われがちだった。「チェーホフって演劇の授業に使い勝手がいいのかな」と。 矢内原:私も出会いは遅くてNYに留学していたとき。それまではダンスにどっぷりで、戯曲を読むどころかお芝居もロクに観ていませんでした。それが、前衛的な創作で有名なウースター・グループの『三人姉妹』を観る機会があって、非常に面白かったんですよ。英語力不足で何を言っているかはわからないけれど、身体性が強く、次に何が起こるか展開の読めない演出で最後まで飽きませんでした。 中野:チェーホフは一年中どこかしらで上演している、上演回数が半端じゃないですよね。だから同じ作品を違うアレンジで観るという、演劇ならではの醍醐味がある気が僕にはした。観るたびに「こういう解釈もあるんだ」「これ当たり!」とか、クラシック音楽の同じ曲を指揮やオーケストラの違いで聴き比べるような、そういう楽しみ方で僕はチェーホフを楽しんでいるところがあります。 |
中野:ただ、その「上演回数が半端じゃない」というのが創るときのネックにもなる。新劇の方のように、綿々とチェーホフを上演し続けている演出家や劇団からすると、僕らはアマチュアみたいなもの。そういう比較のされ方は避けたいじゃないですか。演劇界には「チェーホフは難しい」という印象があるけれど、それはチェーホフをやる人が多過ぎるからじゃないですか? 矢内原:聞けば聞くほど、ウースター・グループはものすごく画期的なチェーホフを上演していたのがわかりますね(笑)。 中野:本当に。初体験のチェーホフに盆踊りのシーンがあったなんて、自慢できますよ。まあ今回のフェスでは、矢内原さんと僕の作品を含め、そういう「画期的なチェーホフ」と出会える可能性が非常に高いでしょうね。創り手として怒られる可能性も、多々ありますけど(笑)。 矢内原:やはり演劇の方は考えることが違うんですね。私は何も考えずに手を出した感じ。よく演劇の方は「チェーホフには手垢がついてる」とか仰るけれど、私の場合は初めてが盆踊りですから(笑)、「どうしてもいいんだ!」と思ってしまった。自作だけでなく、宮沢章夫さんの『東京/不在/ハムレット』に参加した時も、「ダンスは感じるように好きなようにやって」という宮沢さんが言ってくださって、登場人物が一緒でも、まったく違う裏の物語になっていたり。原作の意志を継いでさえいれば「どんなにしてもいいんだよね、チェーホフって」と、思っていても言ったらダメですかね(笑)。 中野:いや、同感ですよ。たとえば大学の授業でチェーホフ作品を使って、ちょっとしたシーンをつくると先生から「そんなのチェーホフじゃないよ」と言われたりする。当然、「フザけんな! ――作家と作品に対しての距離や関係性を、色々な形で試したんですね。そして次の実験がチェーホフのラップ、音楽化だと。 中野:最初から「ラップにしよう」と決めていたわけではなく3、4種類のプランからようやく1本に集約しつつある、という感覚ですけれど。矢内原さんがいらっしゃるから言うわけではないですが、「ダンスなら普通にあることだよな」と思っていたんです。ダンスは戯曲も小説も、絵のようなものまで題材として取り込んでしまうのに、観客は特別違和感を感じない。そういう発想で演劇もできないか、というのは昔から考えていたこと。ただ「演劇をラップにする」こと自体は、昨年ままごとの柴幸男君が見事に昇華してくれたので、そこはもう「OK、ありがとう」と(笑)。 矢内原:秀逸なタイトルですよね。 中野:正直、自分でもどういうものができるか丸きり予想はついていません。わかっているのは客席が2箇所あるから、僕も含め誰もその時行われた作品の全貌を観ることはできない、ということ。創りながらも本当に考えがどんどん展開していて、いつも名乗っている「原作:チェーホフ、誤意訳・演出:中野成樹」という肩書きでなく、今回は「作・演出:中野成樹」じゃないのか? とまで思ったりもしましたし。今まの「誤意訳」ではどんな無茶はしても、あらすじは変わらなかったんですが、今回はこの舞台だけ観ても『かもめ』の物語がわからないかも、と思って。 矢内原:良いんじゃないですか、名乗りたいほうで。「誤意訳」でも「作・演出」でも中野さんが創ることには変わりないですし、チェーホフ本人はいないから大丈夫ですよ。 中野:それ、割と犯罪の匂いがする発言ですね(笑)。 ![]() |
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――クロスオーバーな創作をする矢内原さんは、今回はダンスに絞っての参戦。しかも「いちご新聞より」という気になる副題がついていますが。 矢内原:「いちご新聞」って私が小学生のころにすごく流行ったんですよ。 ――サンリオが発行していたものですよね。 矢内原:そうです。毎月クラスの誰かが持ってきて、それを小学生女子が喜んで読む。キキ・ララとかキャラクター目線の記事が載っていて。『桜の園』を読んでいると、囲われた環境の中で人々がキャッキャとはしゃいだり、悩んだりしつつも一向に状況が変わらないじゃないですか。そういう状況がチェーホフの戯曲には多い。「モスクワに帰る」と言いながら全然帰らなかったり、「園が取られる」というのに何の手立ても取らず、流されるまま失ってしまう。そんな環境やシチュエーションが「いちご新聞」を読んでいた頃の無邪気さ、意志のなさに通じる気がして重ねてみたいと思ったんです。囲われた教室、というかある種の「枠」の内にすべてが存在する環境。そこから出て行くか留まるかは、まだ作ってみないとわからないんですが、そんなイメージのダンスができればなあ、と。 ――見方によっては『桜の園』を通して、別の作品やチェーホフ的な人間関係や状況が見えてくる可能性もあると? 矢内原:そのとおりだと思います。台詞がないぶん、そんな「チェーホフ的な状況、環境」の抽出が自由にできると私は踏んでいるんですけれど。ただメンバー構成が、若いダンサー8人と俳優さん男女1人ずつ、という10人なので言葉を使う可能性もまだあるのですが。 中野:すごい観たいです、その『桜の園』。同時に今僕の頭の中では『桜の園』の三幕、園が誰の手に渡るかで人々がヤキモキしている場面がグルグル回っていて、台詞劇としてもメチャメチャ観たくなった。考えるほど奥行きが深く、許容度も実は高いところがチェーホフの魅力なのかも知れないですね。 矢内原:うちの祖父はよく、「伝統的なものでも、結局は変化しないと残れない」と言っていました。歌舞伎や能なども、実は毎年少しずつ変化している、と。 中野:大賛成です。 |
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矢内原美邦 生年月日:1973年8月25日 |
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